第2回「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」入選作品

銅賞 生き抜いて、お前の許へ

岸 充昭(新潟県柏崎市)67歳

生き抜いて、お前の許へやけに寂しくなり、天空にいるお前に、手紙を書く気になったよ。お前が亡くなってから五年。傍らにいないことが、まだ現実と思えない時がある。お前の笑顔が恋しい。
三月の誕生日が過ぎて、俺は六十七歳になった。生きていたら、お前は六十二歳。
娘二人、適齢期を過ぎたけれど、虫が付かない。知っての通り、器量は悪くないよな。
俺が四十六歳、お前が四十二歳で生まれた末っ子の洋輔は今、二十一歳になった。
洋輔が生れた時のことは忘れない。
十八年間、総合病院の産婦人科で、助産師として子供を取り上げていたお前が、独立して、昔でいう産婆さんになった。今どき、産婆さんなんてと俺はその時、思ったけれども、予想を超えて、自宅出産を望む女性達がいた。
数え切れないほど、人さまの子を取り上げたお前が、まさか末っ子の洋輔を産む時、自分自身が、産婆さんとなったのには驚いた。自分と洋輔をつなぐ臍の緒を切り、娘たちにもその光景を見せた。そこまでは良かった。
お前は気を失った。俺はその時、どれほど慌てたことか。救急車を呼び、産院にお前を運んだ。お前はその病院長にずいぶん怒られたと言っていたが、当たり前だ。お前は、おおらかな人間だったが、あの時は度が過ぎた。でも男子が生まれて、俺は腹を立てたことも、忘れて喜んだ。
洋輔が高一の時、お前は乳がんがあると俺に言った。そしてわずか一年後に逝ってしまった。それはないだろうと俺は泣いた。
般若心経のコピーが、お前のレターケースに入っていた。俺は初めて般若心経なるものを知った。解説本を何冊も買った。肉体も精神も、すべてが空であるなどと教えられても、俺は悟れないよ。お前は生きたいと願ったはずだ。苦しみのない彼岸に渡れたかい。
お前のぶん、俺は生きる。なにせ、まだ娘二人が売れ残ってるからな。孫の顔見たいから、俺は、そこそこ頑張っていくさ。

銅賞 幻の祖母へ

平岡 なを(神奈川県横浜市)54歳

幻の祖母へおばあちゃん、私は幼い頃からセピア色の写真の中でしかあなたを知りません。明治時代に写された家族写真の中のあなたは、まだ若々しく、まさかその先、40代でこの世を去ってしまうなど誰も想像できないくらい健やかで慈愛に満ちた表情を浮かべ、凛とした美しささえ放っています。
あなたが亡くなったときの話は、私が物心ついた頃からずっと、あなたの娘である私の母から詳しく聞かされてきました。
時は昭和二十年。その頃、北海道室蘭市に住んでいたあなたは、銃後の妻として立派に一家を守っていました。
七月十五日。その日の室蘭は、前日から空襲があり、すでに物々しい様子でしたが、あなたは二人の子どもを抱え、気丈に振舞っていました。そこへまた空襲警報が鳴り響いたので、あなたは、私の母とその弟を連れて防空壕へと急ぎました。ところが、途中で大事な忘れ物を思い出して、あなただけ、それを取りに家へと引き返したのです。そして運悪く、自宅の傍に室蘭沖からの艦砲射撃の砲弾が着弾。あなたは一瞬にして散ってしまいました。
爆撃がおさまった後、跡形もなく更地のようになってしまった家の玄関付近にあなたは埋もれていたといいます。遺体を探しあてたのは、当時十六歳だった私の母でした。出てきたあなたの手のぬくもりを母はずっと覚えています。
おばあちゃん、その母も今は八十三歳になりますが、おかげ様で健在です。そして毎日、あなたの写真に手を合わせています。私は年齢を重ねるにつれ、自分もあなたのDNAを受け継いでいることを強く感じるようになりました。
おばあちゃん、この世に母をのこしてくれてありがとうございます。母がいるから今の私がある。こうやって命は繋がっているのですね。感謝を込めてあなたが好きだったキンセンカの花を捧げます。あなたの孫より。

佳作 にほんてぬぐいをほっかむりで

脇 長生(神奈川県川崎市宮前区)55歳

「毎度おおきに、牛乳屋ですわ。あいてまっか、ここに牛乳置いときまっせ」と、おかんは一軒一軒に声をかけて毎朝、牛乳配達をしていた。
大きな配達用の自転車を押しながら、黒のモンペを身につけ、乳のにおいがこびりついた上着で、日本てぬぐいを頭からほうかむりしていた小さな身体の変なオバチャン姿は、町内会でも有名であった。
「脇さんのオバチャンは、元気やな。えらいは、美味しい漬物つくる時間もないのに、ほんま、おかずも上手につくりはるしな」と、近所のおばちゃんがようおかんからもらったおかずの皿を持って店に来ていた。
享年八十六歳で牛乳屋のおかんは亡くなった。脳梗塞で倒れ、二年間もベッドに横になり、日に日に意識がなくなり表情も消えていった。
私は四人兄弟の末っ子として、このおかんに甘えていた。
このおかんに常に付いて回り配達も、集金も一緒に得意先に回った。冬の寒い日も、汗がダラダラとでる夏の日も一緒だった。
中学に進級後の私は、反抗期に入り非行の年になっていった。
何かむしゃくしゃしていて、この真面目なおかんの姿に腹が立っていった。暴力をふるいおかんの背中を足で蹴っていた。
おかんは仏様のような人やったと思う。反対の事をいうと必ずバチがあたっていた。
心からあやまりたい。本当に許して下さい。貴女のような母はいなく、一生懸命に生きる姿とお金を稼ぐ姿を見せてくれた。
あなたがいたから今の私がある。あなたの教えと一日一日の生きていく姿であった。
虚はつけないやさしい慈愛に満ちた遺影の写真は、働いていた笑顔のひびきであった。

佳作 命を懸けて

渡辺 奈々(北海道中川郡本別町)35歳

静かに今、鏡に映る自分を見ています。身長は三十センチも伸びました。パパに買ってもらった、お気に入りの真っ赤なランドセルから、ブランドバックを持つようになり、桜の花びらみたいとパパが言っていた私の爪は、今はきれいな空色にアレンジしたり。そして真っ黒だった髪は、ちょっぴり栗色です。
小学二年の時、初めて家族で行った海水浴。私があの日、高波にさらわれさえしなければ、パパは今も生きていた。私を助けようと海に飛び込んで、そして命を落とす事はなかった。あの恐ろしい夏の記憶から、私はもう二十八回の夏を迎えました。
鏡に映る自分は、パパともう一度だけ手をつないで一緒にショッピングに行きたくて行きたくて、時々涙が目からこぼれる事もあります。友人のように、毎年父の日には二人でちょっとだけお洒落をして、食事にも行きたいのです。当たり前だけど、私の結婚式には、私と腕を組んで歩いてくれる人はいませんでした。
切なる私の願いの一つひとつは、これからも決して叶う事はありません。
でも、十歳になる息子は、「僕が大きくなったら食事に誘ってあげるから」と言い、八歳の息子は、私と手をつないでショッピングにつきあってくれます。
私の二人の息子達は、パパが命を懸けて残してくれた宝物。私が今を生きていられるから、出会えた宝物。私はパパからの宝物に囲まれて、本当に幸せです。パパから教えてもらった事。子供を命を懸けて守るという事。私も命を懸けて、一生懸命育てます。
でも、寂しくなった時、パパに会いたくなった時、迷いそうになった時、また鏡に映る自分を静かに見つめます。だって、鏡に映る自分を見ると、不思議とパパが映っているように見えるから。
パパ。あの時、手を伸ばして私を助けてくれて、本当にありがとう。

第1回「あの人へ贈る言葉-今は亡き“あの人”に届けたい手紙-」入賞作品はこちら

書籍の紹介

2011年春に公募しました第2回「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」では前回を上回る2,265編の応募作品をいただきました。
そのたくさんのお手紙の中から、選考委員三名と全国五十社の葬儀社からなる実行委員会が選んだ金賞1編、銀賞5編、銅賞10編、佳作100編をこの書籍に収録しました。

今は亡きあの人へ伝えたい言葉2
書  籍
今は亡きあの人へ伝えたい言葉2(2011年版)
発行日
平成23年10月15日 第1刷発行
編  者
「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」実行委員会
発行所
株式会社鎌倉新書
判  型
四六判286頁
ISBN978-4-907642-35-8 C0012
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